白起はどこから来たか?そのルーツと人物像〜






白起が歴史に登場するのは紀元前294年・昭王13年からである。
それ以前の白起についてはわからない。


■白起の出自

史記にはただ「ビ」の人とだけある。


白起の生地は都・咸陽よりもさらに西、関中盆地を横切る渭水上流のビ県である。
当時の中国は、洛陽を天下の中心と考えていたので、正に文化果つる地の感があったろう。
                                   ― 『白起』


そのビの白起の実家はどのような家柄であったのだろう?

宮城谷氏は「白」という姓と、白起の楚攻めの執拗さから、こう推理する。

隹研は白起についてべつのことを考えていたらしく、
「武安君が執拗に楚を攻めるのは、先祖の怨みを晴らさんがためでしょうか」
と、いった。
「白公勝か……」
隹研の想念がはるか昔におよんでいたので、范雎はかるいおどろきをおぼえた。
楚は在昔から王室内の闘争の烈しい国である。
いわゆる春秋時代に中華の覇権を樹立した楚王を荘王といい、かれの孫のひとりが平王である。
平王に費無忌という佞臣が近侍しており、かれの讒言を容れた平王は太子を殺そうとした。
平王はそのまえにもむごいことをしている。
太子のために秦から公子を迎えて結婚させようとしたのに、費無忌の勧めで、太子の新婦をとりあげ子を産ませた。
実父の残忍さを恐れた太子は他国へ亡命し、やがて殺された。
その哀れな太子の子が白公勝である。
白公勝は呉の国へのがれたあと、楚にもどされ、乱を起こして王位に即いたが、ひと月あまりして殺された。
白公勝の子孫が西方へ流れ、渭水の北岸に落ち着いたのであろう。
白起はビの出身であるという。
かれは白公勝の末裔ということになろう。
                                  ― 『青雲はるかに』



白公勝については「呉子胥列伝」と「楚世家」に詳しい。
ここでいう「哀れな太子」というのが太子建で、あの呉子胥とともに亡命した人物である。
建の教育係りだった呉奢(呉子胥の父)と呉子胥の兄は費無忌の讒言により平王に処刑される。
それから、呉子胥の長い敵討ちがはじまるのは有名な話である。

ちなみに、「白」という姓のルーツを調べると、いくつかの説があり、決定的な一つの起源には行き当たらない。
はるか五千年前の、炎帝の臣の白阜にまで遡るとか、もっと時代が下って唐代以降の突厥などの胡人が多く白姓を名乗ったとか、実に幅広い。
その中で主流な説が、この「白公勝」の末裔が白氏を名乗ったとするもので、これは『姓纂』という文献によるだけでなく、あの白居易も自らの姓をこう分析しているという。
楚の白公勝が誅殺されたあと、その子孫が楚を逃れ、他国で根づいた。
魏の白圭や秦の白起も、その一族ではないか、というものだ。
だから、宮城谷さんのいう、白公勝云々はちゃんと根拠のあることである。

もし、白起が楚の王族の子孫なら、おもしろい。
白起の上司というべき魏冉も楚からみの人だからだ。
宣太后(魏冉の姉)の先祖は楚の人で、姓はビ氏で、もとの称号はビ八子といった。
そのビ八子の異父弟が魏冉で、同父弟がビ戎(華陽君)である。
真ん中の兄弟の魏冉だけ父が違い姓が違うのが不思議。
楚王の姓がビである。
ということは魏冉は楚の王族の血を引いていないのだろうか。

『白起』にはこうある。

貴人の出生について、とやかく言うのは禁忌である。
だからかえって、庶民の陰口や噂の種にもなるのだ。
魏冉のそれは、小耳に挟んでいる。
楚の王族に嫁いだ彼の母は、子をもうけて後離縁された。
家臣と関係があったと、疑われたらしい。
ちなみに、相手とされた武人は自害して果てている。
そして別の男と再婚して出来たのが、魏冉である。
そこまでならよくある話だが、その男とも死別した。
烈しい夜の営みからの、過労死だと誰知らず言っていた。
その服喪明けを待ちかねたように、元の王族から復縁を求められ、ビ戎を生んだのである。
それほど、蠱惑的だったということだ。
                                  ― 『白起』


その魏冉と白起が楚を攻略することに積極的だったのは果たして祖先の因縁だったのか?
話を白起にもどそう。
その『白起』では、白起のことをこう書く。

白起には兄弟が多かった。
彼が純粋な漢民族だったかどうか、残念ながら記録はない。
『用兵の妙』と頌えられたことを考え併せると、おそらくは、周辺の騎馬民族と胡人の血が混じった一族だったのだろう。
                                  ― 『白起』 


秦という国の地理的環境からそれはあり得ることらしい。

さらに、深読みしていく。
『青雲はるかに』は姓のほうに発想を求めたが、『白起』のおもしろいところは、白起の名に目をつけたところだ。

三百年余り前、楚の荘王(ビ呂)は、小国が乱立する中原の地で陸混の戎を討ち、春秋の五覇に数えられた。
その勢いは周王室をも凌ぎ、使者の王孫満に権威の象徴・鼎の軽重を問うような不遜な態度を示したと言う。
また、その二百年ばかり後、名将・呉起を擁して周辺に進出し、国力は充実していた。
当時の楚兵は特に手強く、初陣の少年兵だった(白起の)祖父は肝を潰した。
(中略)
呉起は無勢を逆手に取り、秦軍の包囲の隙を突いて、背後から火攻めをかけたのだ。
(中略)
秦兵は、焼かれたまま次々と岸辺から落ち(中略)
白起の祖父は、味方の死骸の間に隠れて流れ、呉起が、敵を深追いせぬ鮮やかな引き際を示してくれたお陰で、九死に一生を得たのだ。
彼はこの時、憎むべき敵将に、むしろ畏敬の念を抱いてしまった。
(中略)
そこで祖父が(白起の)命名者となったのだ。
何十回と戦場を駆け巡り、命冥加に生きのびてきた男にとって忘れられなかったのは、初陣でまみえた敵将・呉起であった。
だから、その名を戴いたのである。
                                 ― 『白起』


たしかに、百年の間に呉起と白起という同じ名の名将が現れたのは面白い。
呉起は呉子とも呼ばれる兵法の達人で、あの孫子とも並び称される。
余談だが、『邯鄲盛衰』では兵法の面から白起と呉起を結びつけている。

白起の前半生はよく知られていない。
彼の兵法は、戦国初期の兵法家呉起の流れを汲むものである。
その兵法は『呉子』として知られている。
衛の人である。
魯、魏、楚に仕え、鬼謀の冴えを見せたが、最後は楚で註殺された。
白起は野生児であった。
子どもの時から原野を駆け巡り、野獣の動きのなかに一定の流れがひそんでいることを会得した。
『呉子』を読むことによって、その自然の流れが、法則として捉えられるようになった。
その意味で白起は、独学の兵法家であった。
『呉子』の真髄は、
― 検将と知将。
にある。
相手の将の技量を測ることからすべてが始まる。
さらに『呉子』は
― 兵に四機あり。
と説く。
戦争には、四つの勘所がある。
それは一に気機、二に地機、三に軍機、四に力機である。
どんな大軍勢でも、その軍の強弱は、主将の気合のかけ方一つで決まる。
これが気機である。
(中略)
『呉子』は、さらに説く。
― 四者を知れば、乃ち将となるべし。
そうして身につけた威厳、徳望、愛情、勇気は部下を統率し、安心させ、敵を恐怖させ、自分の作戦上の迷いを決断するに足る。
命令すれば、部下は命に違わず、その将の存在によって、敵は自然と消滅する。
このような人物を将軍に迎えれば、その国は強くなり、こんな人物が将軍の任を去れば、国は滅びる。
これが、名将というものである。
白起はそのような将軍であった。
趙をはじめ六国にとって、秦の恐怖はすなわち、白起の脅威であった。
                                ― 『邯鄲盛衰』


白起が具体的にどのような戦法を展開し、勝利をおさめたかは戦国策や史記に若干の記載があるが、果たしてそれが呉起に通じるものかどうかは、私にはわからない。
白起の時代は徴兵制などの充実から、春秋時代に比べ、大軍勢同士の戦争となっていったという。
それに比例して、戦死者の数も、一回の戦争で何万、何十万と大規模になっていく。
その数字が本当に正しいかどうか別にして、白起の軍は相手の半分の兵力でも勝てたという。
それだけ秦の兵は強かったということだが、指揮官である白起はその兵の効果的な用い方を心得ていた武将であったことは間違いないだろう。

史記の「太史公曰く」に「白起料敵合変、出奇無窮、声震天下」とある。
「白起は敵の力を料(はか)って事変に応じ、奇計を案出すること窮まりなく、名声は天下を震撼した(中国古典文学大系11)」
と言う。
その、すぐれた指揮ぶりが呉起に通じるのであろう。

さて、話を白起の出自に戻そう。
史記に「誰それの子」などの記述が一切ないところから察するに、少なくとも彼は名門の子弟ではなかったのであろう。

あくまで想像の域を出ないが、前述の『邯鄲盛衰』でも白起は「野生児であった」と書き、
『白起』でも幼い彼が、田畑を耕す手伝いをしたり、野山を走り回る様子が書かれている。
そんな彼が兵士となり、昇進し、列侯になったと考えるのも、当時の実力重視の秦のシステムでは十分可能であるらしい。
当時の秦では商鞅の改革以来、人々は厳しい法令にしたがって生きていた。
貴族といえども軍功のないものは特権を失い、庶民でも、敵の首級一個をあげた者には爵一等級を与えた(中国の思想U・戦国策)という。

白起が思春期を迎えるまでに、長男以外は皆、国の方針どおり分家していた。
だが、将来を考えた時、末っ子に渡るべき土地は猫の額ほども無かった。
それを悟って、彼は規定の歳になれば兵になるつもりでいた。
(中略)
白起がビ県から咸陽をめざしたのは、その翌年であった。
渭水左岸を下り、都の手前の杜郵なる所で、彼は楽しい思い出のない故郷の方を振り返った。
『もう、戻ることもないだろう』
そう思うと自然に涙が出た。
それで過去を洗い直し、彼は兵になる覚悟を新たにしたのだ。

                                 ― 『白起』

兵になった白起が左庶長(秦の爵位の一つ)となり初めて兵を率いたのが紀元前294年・秦の昭襄王の13年のこと。
その翌年、秦の宰相・魏冉(ぎぜん)の目にとまり、向寿(しょうじゅ)の後任の将軍として韓・魏を攻め、大勝する。
ここから彼の常勝将軍伝説が始まるというわけだ。
一兵卒から国尉となった白起についてわかりやすく書いてある文をご紹介しよう。
以下は『春秋戦国新聞』の記述である。

≪ニューフェイス 白起将軍≫
 伊闕の戦いにおいて韓・魏の連合軍二十四万を全滅させ、彗星の如く登場した若き将軍白起。
彼のプロフィールを極秘入手した。
 それによると白起またの名を公孫起といい、ビの出身。
用兵にすぐれ昭襄王に仕えていたが、初めは目立たない存在だったらしい。
しかし、前294年に左庶長になり、韓の新城を攻めた。
その後彼の才能に注目した宰相魏冉の推挙により左更に昇進。
秦の二十等爵の中で、左庶長は第十位、左更は第八位にあたり、
さらには宣太后の弟向寿の代わりに将軍として韓・魏連合軍と戦うに至った。
国運を賭けた一戦で自分の弟がヘマをしたら大変だからと、無名の白起に任せたかどうかは不明だが、
とにかく魏冉の登用眼に狂いはなかった。
白起は完膚なきまでに敵を叩きのめし、十五の城を奪い取ったのである。
 この功績により白起は秦の総司令官である国尉となった。
現場からの叩き上げで秦軍の最上位に昇り詰めた白起。
戦功さえ挙げれば「自分もいつかきっと」という夢を秦国の人々に与えた点でも、大きな功績を残したといえる。
                                 ― 『春秋戦国新聞』




ここで「?」と思うのが「公孫起」という別名だ。
白起を紹介する中国のウェブサイトを見ると、ほとんどが「またの名を公孫起」と書いている。
ところが『史記』の白起王翦列伝でも『戦国策』の秦策(別のバージョンでは何故か中山策)にも「公孫起」という名はない。
うそっぽいものは省いた『史記』に記述がないのは根拠が弱い証拠である。
ではどこから「公孫起」というのが出てきたのであろう。

その手がかりを『戦国策』の趙策の部分(巻18趙一、巻20趙3)に見つけた。

韓告秦曰、趙起兵取上党。秦王怒、令公孫起・王■(歯奇)以兵遇趙於長平。
                                 ― 『戦国策』巻十八 趙一
平原君請馮忌曰、吾欲北伐上党、出兵攻燕、何如?
馮忌対曰、不可。夫以秦将武安君
公孫起乗七勝之威、而与馬服之子戦于長平之下、大敗趙師…
                                 ― 『戦国策』巻二十 趙三


ここに出てくる「公孫起」とは前後の内容からみて明らかに白起のことを指している。
さらに調べると、『戦国策』の鮑彪(宋の時代の人)の注にも「公孫起即白起」とあった。
「またの名を公孫起」とする根拠はおそらくここからきているのだろう。
そもそも「公孫」という姓は、その字の通り、王の子を公子といい、公子の子が公孫なので、王族が名乗ったものであろう。
例えば秦の改革をした商鞅(しょうおう)も公孫鞅といい、衛の王族であった。
『戦国策』自体がうさんくさいといえばそれまでなのだが、どこかの王族の子孫である可能性もあるわけだ。
それとも白公勝を想定して趙人が公孫起と呼んだのだろうか?



■白起の容貌

さて、その白起、一体どんな容貌であったのだろう。
これも史記に書いてない。
特記されるほど、変わった容貌ではなかったのだろう。
それを敢えて考えてみるとどうなのか?
作家さんたちの白起像を見てみよう。

まずは宮城谷さん。

 武安君にじかに会えるかどうか……。
 この不安は白起の封地にはいるやいなや、解消した。
呂不韋が魏冉の使者であることを知った役人は、鄭重さをあらわし、謁見をとりはからってくれた。
ただし内閲というかたちである。
呂不韋は内殿にはいった。
「ご足労をおかけした」
 あらわれた白起は陽気な声を発した。
― ぞんがい小柄な人だ。
 意外といえば、これほど意外なことはない。
大軍を指揮し、つぎつぎに強敵を撃破して、敗れるということを知らぬ将軍の像は、
呂不韋のなかでいつのまにか巨大化していた。
しかし、眼前の白起は、親しみやすい笑貌をかどのない体躯のうえにのせている。
                                 ― 『奇貨居くべし』

「わしは武安君に命ずるのではなく、たのもうとおもう。范君よ、使いをしてくれ」
 そういわれた范雎は王の使者として白起邸にはいった。
余人をまじえず対談するのは、両者にとってこれが最初であり、じつは最後でとなった。
 白起は赫々たる武勲の人である。
いまや天下でも白起の名を知らぬ人はいない。
その名の巨大さから、さぞや巨躯の人であろうと想像しがちであるが、かれに面会した人は、
「これが、あの武安君か」
と、おどろきを一様にするほど、小柄な人である。
 上座にすわった范雎は底意のある目に対した。
その目は范雎を冷笑しつづけている。
                                 ― 『青雲はるかに』


塚本さんは、異民族の血が混ざっていると思われる白起は色黒だったと推測する。

白皙の彼が烏獲(うかく)で、任鄙ほどでないにしろ、浅黒い肌の自分が白起とは、互いに名が体を表していない妙な縁だ。
                                 ― 『白起』

『白起』の若いころの白起は精鋭部隊に選ばれただけあって敏捷なイメージ。
太子(のちの武王)にいたぶられかける場面では、力士の任鄙の猛烈な突っ張りを受けて、
とっさに木の枝に手をかけ一回転し静かに着地してみせる。
武人らしい礼をしたり、すぐに剣に手を掛ける反射神経をもつ反面、
初恋のひとを想ってはときどきぼーっとしてるような青年である。

特に武人・公孫喜は、前年韓の新城を落とした秦将が白起であると聞いて、鼻先で嗤っていた。
「悼武王后を迎えに行ったとき、送ってきた奴だ。あんな腑抜けのような校尉が、よくぞ戦いに勝てたものだ。
 また、奴が将として進軍してくるらしいが、我らが目にもの見せてくれる。楽毅殿の手を煩わせるまでもないことだ!」

                                 ― 『白起』

それから30年余り後、長平の戦いのころの白起は、もう白髪で老将の域に達している。

この頃になって、ようやく秦の将軍が白起であることが知らされた。
伊闕、成皐、郢、夷城、華陽で延べ百万以上の首級をあげた常勝将軍。
敵方から白髪鬼と恐れられる男の噂を知らぬものはない。

                                 ― 『白起』
「そっ、そなたは白殿か……?」
媼はようやく思い出したようである。白と漏れ聞こえたため、周りの者がざわめきだした。
「白、白起。武安君……」
白髪厳めしい武官が秦の猛将だと判ったとき、二人を残して墨者の女たちが少し引いた。

                                 ― 『白起』

オマケ[白起将軍]の図  横山光輝『史記』

長平の戦いのときはもっとじじいだったと私は思う。
カラーのほうの下は趙の旗だから趙括だろう。

参考までに秦の兵馬俑の高級軍吏俑

左は「将軍俑」として有名なタイプ西安の兵馬俑
ある。右は日本の展覧会に来た高級軍吏俑。



■白起の年齢

白起が左庶長になったのが前294年、長平の戦いが前260年、自害したのが前257年である。
『邯鄲盛衰』では享年54歳としているが、そうすると左庶長になったのが17歳になってしまう。
いくら天才でも17歳で軍を率いるのは無理がある。
あの項羽でも初めて兵をおこしたのは24歳だ。
25歳で左庶長、長平の戦いで60歳ぐらいと考えるのが妥当ではないか?
当時の60歳はかなり高齢の部類に入るだろうから、もっと年齢を引き下げて考えると、
25歳にも満たない若い国尉になってしまう。
そうしたら、史記に「年若くして国尉となり」の一言ぐらい入りそうなものだと思うがどうであろう。
逆に年齢を引き上げると、70歳近い病の老将に「寝ながらでも指揮をとれ!(戦国策)」という昭襄王が狂気じみてくる。
やはり25歳ぐらいで左庶長、30歳前で国尉、40歳ぐらいで武安君となり60歳過ぎで自害させられたのであろう。









◆ 目 次 ◆
  

1.白起はどこからきたか?
2.白起はどれだけ強かったか?
3.白起をとりまく人間関係
4.戦国時代最大の戦争・長平の戦い
5.白起の大量殺戮の背景
6.抗命事件と白起の最期
7.年表で見る白起の時代
8.参考文献一覧


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