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秦の常勝将軍・白起はどれだけ強かったか?


武安君
(白起)、秦のために戦いて勝ち、攻めてとるところのもの七十余城。
南はエン・郢・漢中を定め、北は趙括の軍を禽にす。
周・召・呂望の功といえどもこれよりも益さず。 
(かの周公旦・召公セキ・太公望呂尚の功績もこれには及ばない)
                          ― 司馬遷 『史記』 白起王翦列伝(蘇代の言)

楚は陳へ逃げた時点で形骸化したといっていい。
楚を実質的に滅ぼしたのは、白起であったといえる。
この戦闘を通じて、白起軍が殺した楚兵は三十万にのぼった。
捕虜に対しても、白起は容赦しなかったのである。
過酷というよりも、戦いの結果そのものが、彼の全人生といってもよいであろう。
彼は戦いの権化であった。
                          ― 伴野 朗 『邯鄲盛衰』

楚の疆をもってせば、天下、当たること能わず。
白起は小豎子のみ。
数万の衆を率い、師を興してもって楚と戦い、一戦してエン・郢を挙げ、
再戦して夷陵を焼き、三戦して王の先人を辱めたり。
而るに王、これを悪むを知らず。
(とても楚に対抗しうる強国がほかにあろうとは思われぬ。
しかるに現実は秦将白起のごときコセガレの、わずか数万の
兵と戦って、
たちまち国都エン・郢を奪われ、祖廟を焼かれ、祖先のみたまを辱めた。
王はこのことを怨みに思わないのですか」)

                          ― 司馬遷 『史記』 平原君虞卿列伝(毛遂の言)

「秦軍が迫ってきたようです」
「秦将の名がわかりますか」
「白氏であると兵はいっておりました」
「伊闕の白起ですね」
「伊闕とは……」
「十一年前に秦は伊闕というところで韓と魏の軍に大勝したのです。
 そのときの秦将が白起で、かれが殺した敵兵は二十万とも三十万ともいわれています。
 恐ろしい将軍です」
                          ― 宮城谷昌光 『奇貨居くべし』

白起という将軍は敵ととりひきをしない。
かれは骨の髄まで武人であり、戦いに政治をもちこむということをしない。
それゆえ白起と戦う者は、純粋な勝負にひたりきって、おのれの生死を賭するしかない。
が、白起をうち負かした将軍などいないのである。
                          ― 宮城谷昌光 『青雲はるかに』

白起は軍事の天才である。
これは誰もが認める史実であろう。
白起は宰相の魏冉に推挙され(史記・穣侯列伝)、数々の戦いで将軍を歴任。
戦況をうまく活かし、戦いに勝ち続け、順調に昇進。
楚の国都を陥落させた功績から、封邑を授かり武安君となる。
まず史記の記述から白起の軍功をみてみよう。


■史記 白起・王翦列伝第十 (参照、岩波文庫・史記列伝1)

秦のビの人。用兵にたけ、秦の昭王につかえた。

(中略)
昭王13年
  左庶長として兵を率い、韓の
新城をせめた。

昭王14年
  左更になり、韓・魏を攻め、伊闕で戦い、首を取ること
24万
  韓の将軍・公孫喜をとらえ、5城をおとす。
  国尉となり、黄河を渡り韓の安邑を奪い、東方の乾河に達す。

昭王15年
  大良造になり、魏の都を攻めておとし、大小の城
61城をうばう。

昭王16年
  客卿の錯とともに
の城を攻めおとす。

昭王21年
  趙を攻め、
光狼城をおとす。

昭王28年
  楚を攻め、
エン・ケなど5つの城をおとす。
  夷陵を焼き払い、東方の竟陵に達す。
  このため、楚王は郢から脱出し、東へ逃げて陳に都を遷す。
  秦はうばった郢に南郡をおく。
  白起は昇進して武安君と称せられ、それを手はじめに楚の各地を放略し、
巫郡黔中郡を平定した。

昭王34年
  魏を攻めて
華陽をおとし、将軍茫卯を敗走させて、三晋(韓・魏・趙)の大将たちをとらえ、首を取ること13万
  趙の将軍賈偃と戦ったときには兵卒
2万人を黄河で溺死させた。

昭王43年
  韓のケイ城を攻めて
城5つをおとし、首をとること5万
  
昭王44年
  韓の
南陽を攻めて太行山への通路をたち切る。

昭王45年
  韓の
野王城を伐ち、この城は秦に降服して、上党から韓の都への通路はたたれた。

昭王47年
  長平で趙の軍に大勝し、趙の兵士40万は白起に降服するが、白起は反乱を恐れ、
40万人をだまして生き埋めにする。
  ただ年少のもの240人だけは趙へ帰してやった。


陥落させた都市の多さも、記録的だが、驚くべきはその捕虜の多さである。
ざっと見ただけでも敵兵を100万人近く斬首(もしくは溺死・生き埋め)にしている。
とくに最後の「長平の戦い」での40万人の生き埋めは凄まじい。
趙という一つの国の成人男子がいっぺんに殺されたのである。
かれの残虐行為の背景には、当時の秦は厳格な法治国家であり、「首級をあげる」ことが昇級の鉄則であったからだと考えられている。
しかし、この桁はずれの戦功は彼自身の破滅につながっていく。









◆ 目 次 ◆
  

1.史書にない白起像
2.白起はどれだけ強かったか?
3.白起をとりまく人間関係
4.戦国時代最大の戦争・長平の戦い
5.白起の大量殺戮の背景
6.抗命事件と白起の最期
7.年表で見る白起の時代
8.参考文献一覧


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