(5)年表で見る白起の時代

白起の生きた時代を年表にしてみよう


参考文献

記号 史列13 史列12 史本5 史世10 史世13 史世14 史世15 史列19 史列21
文献 白起王翦列伝 穣侯列伝 秦本紀 楚世家 趙世家 魏世家 韓世家 范雎蔡沢列伝 廉頗藺相如列伝


西暦 秦暦 秦本紀 白起王翦列伝 穣侯列伝
B.C.307 武王4 武王、力試しで鼎を持ち上げ脛骨を折り死去
B.C.306 昭王1 武王の異母弟、昭王立つ
厳君疾(樗里子)宰相となり、甘茂は秦を逃れて斉へいった
B.C.305 2 庶長の荘が大臣・諸侯・公子と謀反をおこし皆誅せられる
前王の后が魏に帰った
B.C.304 3 王、冠礼をおこない、楚王と黄棘で会い、楚に上傭を与えた
B.C.303 4 秦が蒲阪を取った
B.C.302 5 魏王が臨晋に来朝した
魏に蒲阪を還した
B.C.301 6 蜀侯のWがそむいた
司馬錯が蜀の地を平定し、庶長奐が楚を伐ち、首級2万を斬った
陽君が斉の人質となった
樗里子が没し、趙の楼緩が宰相となるが、免ぜられ、魏冉が宰相となる。昭王12年か?
B.C.300 7 秦は楚を伐って新城を抜いた
樗里子が死んだ
B.C.299 8 将軍ビ戎に楚を攻めて新市を取らせた
斉は章子に、魏は公孫喜に、韓は暴鳶に命じ、共に楚の方城を攻めて、唐眛を殺した
趙が中山を破り、中山の君は逃げて斉で死んだ
魏の公子勁と韓の公子長が諸侯となった
B.C.298 9 孟嘗君薛文が秦に来て宰相になった
奐が楚を攻めて八ヵ城を取り、楚将の景快を殺した
B.C.297 昭王10 楚の懐王が秦に入朝し、秦は王を拘留した。
薛文は金を受け取ったということで宰相の位を免ぜられ、楼緩が丞相となった
B.C.296 11 斉・韓・魏・趙・宋・中山の五ヵ国が共同して秦を攻め、塩氏まで行って兵を還した
秦は韓・魏に河北および封陵を与えて和睦した
楚の懐王は秦を逃げて趙にいったが、趙は受けつけなかったので、また秦に還り秦で死んだ。死体を楚に持ち帰って葬った
B.C.295 12 楼緩が免ぜられ、穣侯魏冉が宰相になった
楚に粟五万石を与えた
B.C.294 昭王13 向寿が韓を伐って武始を取った
左更の白起が新城を攻めた
五大夫の呂礼が秦を逃げて魏に奔った
任鄙を漢中の守とした
左庶長として兵を率い韓の新城を攻めた
その年、穣侯が宰相であったが、任鄙を推挙して漢中の太守とした
B.C.293 昭王14 左更の白起が韓・魏を伊闕に攻め、首を斬ること24万、公孫喜を虜にし5城を抜いた 左更の位にすすみ、韓・魏を攻め、伊闕で戦って、首を取ること24万
韓の将軍・公孫喜をとらえ、5城をおとしいれた
白起は昇進して国尉となったが、黄河をわたり韓の安邑をうばい東方の乾河に達した
病気を理由に宰相を辞職。客卿の寿燭が宰相に。
B.C.292 昭王15 大良造の白起が、魏を攻めて垣を取り、また魏に還した
楚を伐って宛を取った
白起は大良造になり、魏の都を攻めておとし大小の城61城をうばった 魏冉再び宰相に。穣侯になる(陶邑も授けられる)
B.C.291 16 左更の司馬錯が魏のシとケを取った
公子市を宛に、公子カイをケに魏冉を陶に封じて諸侯とした
客卿の錯とともに垣の城をおとす
B.C.290 17 城陽君が秦に入朝し、東周の君も来朝した
秦は垣の地をもって蒲阪と皮氏に換えた
秦王が宜陽にいった
B.C.289 18 錯が垣・河雍・決橋を攻めて、これらの地を取った
B.C.288 昭王19 秦王が西帝となり、斉王が東帝となったが、やがてまた、これらの号を捨てた
呂礼が来て秦に帰服した
斉が宋を破ったので、宋王が魏に逃げ、温で死んだ
任鄙が卒した
B.C.287 昭王20 秦王が漢中にゆき、また上郡の北河にいった
B.C.286 昭王21 錯が魏の河内を攻め、魏は安邑を秦に献じた
秦では安邑の民を募集して、河東の地にうつし、うつった者には賞として爵を賜い、また、罪人を赦して、そこにうつした
陽君を宛に封じた
白起は趙を攻め、光狼城をおとした
(秦本紀では昭王27年)
宰相を免ぜられる
B.C.285 22 蒙武が斉を伐った
河東の地を分けて九県にした
秦王は楚王と宛で、趙王と中陽で会見した
B.C.284 23 尉の斯離が三晋および燕とともに斉を伐ち、斉軍を済水の西で破った
秦王は魏王と宜陽で、韓王と新城で会見した
B.C.283 24 楚王とエンで会い、また穣で会った
秦は魏の安城を取り、大梁に行った
燕と趙が魏を援けたので秦軍が引き上げた
魏冉が宰相を免ぜられた
3度目の宰相になる
B.C.282 25 秦は趙の二城を抜いた
秦王は韓王と新城で、魏王と新明邑で会見した
B.C.281 26 罪人を赦して穣にうつした
魏冉がまた宰相になった
B.C.280 27 錯が楚を攻めた罪人を赦して南陽にうつした
白起が趙を攻め、代と光狼城を取った
また錯に命じ、隴西から兵を出して蜀に出、楚の黔中を攻めさせて、ここをおとしいれた
B.C.279 昭王28 大良造の白起が楚を攻めて、エン・ケを取り、罪人を赦してこの地にうつした
楚を攻めエン・ケなど5城をおとす 白起を派遣し楚の都・郢を陥落させる。
B.C.278 29 大良造の白起がまた楚を攻めて郢を取り、南郡としたので楚王が逃げた
周の君が秦に来た
秦王と楚王が襄陵で会見した
白起が封ぜられて武安君となった
楚を攻め郢の都をおとし、夷陵を焼き払い、東方の竟陵に達した
楚王は郢から脱出し東ににげて陳に都をうつした
秦はうばった郢に南郡をおいた
白起は昇進して武安君と称せられたが、それを手はじめに楚の各地を方略し、巫郡と黔中郡を平定した
B.C.277 昭王30 蜀郡の守、若が楚を伐って巫郡および江南を取り、黔中郡を置いた
B.C.276 31 白起が魏を伐って二城を取った
楚に江南を返した
B.C.275 昭王32 宰相穣侯が魏を攻めて大梁に迫り、暴鳶の軍を破って首級4万を斬り鳶が遁走した
魏は三県を秦に入れて和を請うた
相国となる
兵を率いて魏を攻め、華陽をおとし、将軍・茫卯を敗走させ大梁を包囲する(白起と2年のズレ?)
B.C.274 33 秦の客卿胡傷が魏の巻・蔡陽・長社を攻めて、これらの地方を取った
魏将茫卯を撃って華陽で破り、首級15万を斬った
魏は南陽を秦に与えて和議を結んだ
B.C.273 昭王34 秦は魏に韓の上傭の地を与えて一郡とした
南陽で免官になった者が、ここに赴任した
白起は魏を攻めて華陽をおとし、将軍・茫卯を敗走させて三晋の大将たちをとらえ、首をとること13万
趙の将軍賈偃と戦ったときは、兵卒2万人を黄河で溺死させた
B.C.272 35 韓・魏・楚をたすけて燕を伐った
初めて南陽郡を置いた
B.C.271 36 客卿の竈が斉を攻めて、剛・寿を取ったので、この地を穣侯に与えた
B.C.270 37
B.C.269 38 中更の胡傷が、趙の閼与を攻めたが、取ることができなかった
B.C.268 39
B.C.267 昭王40 悼太子が魏国で死に、シ陽に帰葬した
B.C.266 41 (夏)魏を攻めて、ケイ丘・懐を取った
B.C.265 42 秦の安国君が太子となった
(7月)宣太后が薨じ、シ陽のリ山に葬った
(九月)穣侯が宰相を免ぜられ、都を去って封邑の陶についた
B.C.264 昭王43 武安君白起が韓を攻めて九城をおとしいれ、首級5万を斬った 白起は韓のケイ城を攻めて城5つをおとし、首を取ること5万であった
B.C.263 昭王44 秦は攻めて韓の南陽を取った 韓の南陽を攻めて、太行山への通路を断ち切った
B.C.262 昭王45 五大夫の賁が韓を攻めて十城を取った
華陽君カイが都を去って封地にいったが、途中で死んだ
韓の野王城を伐ち、この城は秦に降服して、上党から韓の都への通路は断たれた
B.C.261 46 秦は韓のコウ氏と藺を攻めておとした
B.C.260 昭王47 秦が韓の上党を攻めたので、上党は趙に降った
よって秦は趙を攻めたところ、趙は出兵して秦を撃ち、たがいに戦った
秦は
武安君白起に命じて趙を撃ち、大いに趙軍長平に破り、40万人をことごとく穴に埋めて殺した
秦は左庶長の王コツをやり韓を攻めさせ、上党をうばった
上党の住民は趙の方へ逃げ、趙は長平まで出兵して、そこでくいとめ上党の人心をおちつかせようとした
(4月)王コツはなおも趙を攻めた
(中略)
秦では馬服の子が将軍になったと知るや、まずひそかに
武安君白起を上将軍とし、王コツを副将にして(中略)
趙軍は大敗となって、
趙兵40万人は武安君に降服した(中略)
武安君は捕虜をうまくだまし生き埋めにして殺した
ただ年の小さいもの240人だけを趙へ帰してやった

この戦いで首を取り捕虜としたものはあわせて45万人、趙国は大いに動揺した
B.C.259 48 (10月)韓が垣雍を秦に献じた
秦軍は分かれて三軍となった
武安君が帰り、王コツが将として趙の武安君を伐ち、皮牢を攻め取った
司馬梗は北方の太原を定め、ことごとく韓の上党の地を保有した
(正月)戦をやめ、また上党を守った
(10月?)五大夫の陵が趙の邯鄲を攻めた
(10月)秦はふたたび上党郡を鎮定した
軍を二つに分け、王コツは皮牢を攻めておとしいれ、司馬梗は太原を平定した
韓と趙では恐怖して、蘇代を使者に立て、てあつい贈り物をもって秦の宰相応侯に勧告させた(中略)
これを聞いて応侯は秦王に献言した(略)
王はそれを許し、韓からは垣雍を、趙からは城6つを割かせて和議を結んだ
(正月)交戦は停止された
武安君はこの由を聞き、それよりは応侯と不和になった
(9月?)秦はふたたび出兵し、五大夫王陵を大将として邯鄲を攻めさせた
そのころ武安君は病気で行軍できなかった
B.C.258 49 (正月)いよいよ増兵して陵を援けたが、陵の作戦がよくないので王コツが代わって将となった
(10月)将軍の張唐が魏を攻めた
守城の尉蔡某が城を棄てて守らなかったので、捕虜として帰りこれを斬った
(正月)王陵は邯鄲を攻めていたが、はかばかしくなかった
兵を増派して助けさせたが、王陵の軍は5つの部隊を失った
武安君の病気が平癒していたので、秦王は王陵に代わって指揮をとらせるつもりであった(中略)
秦王がじきじきに命令を下したが武安君は出発しない(中略)
秦王は王コツをやり王陵に代わらせた
八,九か月間邯鄲を包囲したが、おとすことはできなかった
B.C.257 昭王50 (10月)武安君白起が罪を犯したので、爵位を奪って普通の士のたぐいとし、陰密にうつした
張唐が鄭を攻めて国都をおとしいれた
(12月)ますます増兵して汾城の郊外に陣した
武安君白起が罪によって死んだ
王コツが邯鄲を攻めたがぬくことができず、退いて汾城郊外の軍に逃げ込んだ。その後2ヶ月あまりして晋軍を攻め首級6千を斬った。晋軍の逃げて河におちいって死んだ者が2万人あった。汾城を攻め、張唐に従って寧新中を抜いた
寧新中を更めて安陽と名づけ、初めて橋を架けた
楚は春申君を派遣し、魏の公子も加わって数十万の兵をひきい、秦の軍を攻撃した
秦の軍には死傷者と逃亡兵が多くなった
武安君が「わたくしの献策をきかれなかったが、このありさまはどうなのか」と言ったと聞き、秦王は腹を立て、むりにも武安君を起用しようとした
それで武安君は重病と称し、応侯が頼んでも、いっかな乗り出そうとはしない
これで武安君は職を免ぜられ、一兵士として、陰密に流された

(11月)
武安君は病気のためすぐに出発できなかった
3ヶ月ほどたって諸侯の攻撃はいよいよきびしく、秦の軍は幾度も退却し、毎日その使いが来る
こうなると秦王は人をやり白起は咸陽の都にとどまってはならぬと命じた
武安君が出発し咸陽の西門を出て十里ゆき杜郵まで来たころ、昭王は応侯および臣下たちと協議し、「白起は流したが、まだ不平をいだき、とやかく言っておる」とのかどで、秦王はやがて使者を立て剣を賜い自決せよと命じた
(中略)
武安君の死は、秦の昭王の50年11月であった(略)
B.C.256 昭王51 将軍摎が韓を攻めて陽城・負黍を取り、首級4万を斬った
また趙を攻めて二十余県を取り、首斬った者と捕虜と合わせて9万あった
西周の君が秦にそむき、諸侯と従約を結んで天下の精兵を率い、伊闕を出発して秦を攻め、秦と陽城の連絡路を絶った
そこで秦は将軍摎に西周の攻撃を命ずると、西周の君は自らはしって秦に投じ、頓首して罪をあやまり、領地の三十六邑、戸口三万をことごとく秦に献じた
秦王は献上を受けて、その君を周に帰した
B.C.255 52 周の民が東方に逃げ、周に伝わった宝器の九鼎が秦の手に入り、周が滅んだ
B.C.254 53 天下の諸侯が秦に入朝したが、魏おくれて入朝しなかったので、秦は摎に魏を伐たせ、呉城を取った
韓王が入朝した
魏は国を挙げて秦に任せ、その命令を奉じた
B.C.253 54 秦王は上帝を雍で郊祭した
B.C.252 55
B.C.251 56 (秋)昭襄王が卒し、子の孝文王が立った
唐八子を尊んで唐太后とし、昭襄王の墓に合葬した
韓王は喪服を着て、自ら秦に来て弔った
他の諸侯はみな将相を遣わして弔問し、葬式に参列した
B.C.250 孝文王1
B.C.249 荘襄王1










◆ 目 次 ◆
  

1.史書にない白起像
2.白起はどれだけ強かったか?
3.白起をとりまく人間関係
4.戦国時代最大の戦争・長平の戦い
5.白起の大量殺戮の背景
6.抗命事件と白起の最期
7.年表で見る白起の時代
8.参考文献一覧


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